AIを業務に入れるとき、稟議で必ず出る問いがある。「これは、何に照らして大丈夫だと言っているのか」。OWASP ASVSのような技術の検証標準は答えの半分でしかない。もう半分は、事業者としての態勢を問われている。日本でその物差しになるのが、総務省と経済産業省のAI事業者ガイドラインだ。最新は第1.2版、2026年3月31日の公表になる。
法律ではない#
まず性格を押さえておきたい。これは法令ではなく、拘束力を持たない。守らなくても罰則はない。
では意味がないかというと、逆だ。拘束力がないからこそ、参照される。 従うかどうかを自分で決められる代わりに、従っていると言うなら、何をどこまでやったかを自分で示す必要がある。
国内に散らばっていた複数のAI関連ガイドラインを統合して作られた文書でもある。どれを見ればいいのか分からない、という状態を一本化した経緯がある。
三つの立場#
この文書の特徴は、事業者を役割で分けるところにある。
- AI開発者 — モデルやシステムを開発する
- AI提供者 — 開発されたものを組み込んで、サービスとして提供する
- AI利用者 — 提供されたものを業務で使う
同じ指針でも、立場によって求められることが変わる。学習データの扱いは開発者の論点だが、利用者にとっては「提供元がどう扱ったか」を確かめる論点になる。
一つの組織が複数の立場を兼ねることは普通にある。 外注したAIアプリを社内で使えばAI利用者だが、それを顧客向けサービスに組み込んだ時点でAI提供者にもなる。どの立場で読むかを決めないと、どの項目が自分に該当するかが決まらない。
この区分が効くのは、責任の切れ目がここで決まるからだ。外注したアプリで事故が起きたとき、開発会社の責任なのか、それを組み込んだ自社の責任なのか、使い方を誤った現場の責任なのか。立場を先に決めておかないと、事故のあとに揉める。
個人情報保護法との重なり#
日本で運用するなら、避けて通れない論点がもう一つある。
AIに業務データを渡すとき、その中に個人情報が含まれていれば個人情報保護法の適用を受ける。ガイドラインのプライバシー保護の指針は、この法律の存在を前提にしている。
ガイドラインは守らなくても罰則がないが、個人情報保護法は法律だ。 混同すると危ない。ガイドラインのチェックリストが埋まっていても、法の要件を満たしているかは別に確かめる必要がある。
外部のAIサービスにデータを送る場合は、委託なのか第三者提供なのか、越境移転に当たるのかまで見ることになる。ここは法務の領域で、チェックリストだけでは決まらない。
十の共通の指針#
すべての立場に共通する指針として、十項目が置かれている。
人間中心、安全性、公平性、プライバシー保護、セキュリティ確保、透明性、アカウンタビリティ、教育・リテラシー、公正競争確保、イノベーション。
技術者の目には広すぎる項目が混ざって見えるはずだ。公正競争やイノベーションは、セキュリティ診断の話ではない。それでいい。この文書が見ているのは実装ではなく、事業としてAIを扱う態勢のほうだからだ。
土台には「人間中心のAI社会原則」がある。人間中心が一番目に置かれているのは、順序が意味を持っている。
別添7が、実務で一番使える#
本文は読み物として書かれていて、そのままでは点検に使いにくい。実務で効くのは付属資料、なかでも別添7になる。
別添7はチェックリストとワークシートで構成される。二種類ある。
- Aチェックリスト[全主体向け] — すべての事業者が、自分の取組状況を概観するためのもの
- Bチェックリスト[高度なAIシステムに関係する事業者向け] — 対象を絞ったもの
ここが効くのは、そのまま点検の記録になるからだ。抽象的な指針を、確認できる単位に落としてある。「透明性を確保している」では判定できないが、チェックリストの項目なら埋まっているかどうかが見える。
そのまま使うことも、自社の事業内容に合わせて作り替えることも想定されている。作り替えたなら、なぜその形にしたかを残しておくと後で効く。
ASVSとの関係#
役割が違うので、競合しない。
OWASP ASVSは、アプリケーションの検証項目を並べた技術の目録だ。パスワードの最小長やハッシュアルゴリズムまで降りていく。
AI事業者ガイドラインは、そこまで降りない。かわりに、誰が責任を持つのか、どう説明するのか、事故が起きたときどうするのかを問う。
だから実務では両方使うことになる。技術はASVSで確かめ、態勢はこちらで確かめる。 稟議に出すとき、片方だけでは説明が片肺になる。
EU AI Actとの違い#
海外の枠組みと比べると、性格の違いがはっきりする。
EU AI Actは規制だ。リスクの区分があり、区分ごとに義務があり、違反には制裁がある。適用対象になるかどうかで、やるべきことが決まる。
AI事業者ガイドラインは、そうではない。何をするかは事業者が決める。決めた内容と、決めた理由を自分で持つ。
日本市場だけを見ているなら前者に振り回される必要はないが、EU向けに製品を出すなら両方が要る。どちらを見ているかを、最初に決めておいたほうがいい。
高度なAIシステムとは何を指すか#
別添7のBチェックリストは「高度なAIシステムに関係する事業者向け」とされている。自分が該当するのか、判断に迷いやすいところだ。
想定されているのは、最先端の基盤モデルの開発や、それに準ずる規模の取り組みになる。既製のAPIを呼んで社内業務を自動化しているだけなら、通常は該当しない。
ただし、該当しないと判断したなら、そう判断したことを書いておくほうがいい。あとから問われたときに、見落としたのか、検討して外したのかが区別できる。
判断に迷う場合は、Aチェックリストを先に一周してから考えても遅くない。Bだけを見て止まるより、進む。
注意しておくこと#
版が上がる。 1.0版が2024年4月、1.1版が2025年3月、1.2版が2026年3月。毎年のように改訂されている。社内基準に取り込むなら、どの版かを明記して、追随の担当を決めておく必要がある。
チェックを埋めることが目的化しやすい。 これはASVSと同じ罠だ。項目に印を付ける作業に集中すると、自社固有のリスクが視界から外れる。
該当しない項目は、該当しないと書く。 空欄のまま出すと、確かめていないのか、対象外なのかが読み手に伝わらない。
どう始めるか#
全項目を一度に見ようとすると、まず止まる。順番がある。
- 自分の立場を決める — 開発者か、提供者か、利用者か。複数なら、それぞれで読む
- 対象のシステムを決める — 組織全体ではなく、まず一つ
- Aチェックリストを一周する — 埋まらない項目が見える。それが現在地になる
- 該当しない項目を落とす — 理由を書いて記録に残す
- 残りを優先度で並べる — 全部を同時にやらない
三番目で手が止まることが多い。埋まらないのは、やっていないからとは限らない。やっているが、記録がないという状態が一番多い。
その場合にやるべきは対策の追加ではなく、既にやっていることを書き出すことになる。ここで大きく数が減る。
まとめ#
この文書が提供しているのは、規制ではなく共通の言葉だ。
「AIを安全に使っています」ではなく、「AI事業者ガイドライン第1.2版のAIチェックリストに沿って、この立場で、ここまで確認しました」と言えるようになる。相手が同じ文書を知っていれば、それだけで通じる。
社内の合意形成でも、取引先への説明でも、監査でも、拠って立つ文書があるかどうかで話の進み方が変わる。自前の基準を一から作った場合、その基準が妥当だという説明から始めなければならない。既にある文書を使えば、そこは省ける。
国内で事業をするなら、ここが出発点になる。